■ こわーい社会
このごろの新聞の社会面、怖くなりませんか?“殺人”、“毒”、“捏造”、“騙し”等、ホラー小説に出てきそうな単語が林立していますよね。どうしてこういう言葉が日替わりで出てくるのでしょう。
これらの文字が出てくる背景には、おそらく共通して、“利益をどうにかして独り占めしたい!”という感情が流れているのではないでしょうか?相当に自分中心の考え方、すなわち、“自分さえよければ”とか“楽して儲けたい”といった独りよがりの精神が根底にあるのではないかと思います。
そして、もう一つの側面は、表舞台で勝負するのではなく、出来るだけ目立たずに、あるいは全く気づかれないで事を進めたいという感情を併せ持っているということです。
誰にも気づかれることなく、自分だけに利益が集まることを考えている人が増加している。全く表情が見えないままに、事が進んでいく、これは本当に怖い社会ですね。今回は、このことに焦点を当てて考えて見たいと思います。
■ 現代人のコミュニケーション
最近の人々、特に多くの若者の会話は、直球ですよね。(ただし、誤解がないようそういう人ばかりではないこと最初に言っておきます。)まるで幼子がダダをこねるように、何かほしい時は、身体を左右に捻りながら“ほし~い。”、頼みごとをしたい時は、悲鳴に近い声で“お願~いしま~す。”みたいな会話を聞いたことがありませんか?廻りのシチュエーションに関係なく要求を突きつけてくる、そんな光景を目にされたことはないでしょうか?地球は自分を中心に廻っているかの様な印象すら与えますね。
多分、幼いときから、受験戦争にあえぎ、“勝ち抜く”事を最優先に教えられ、遊びといえば、テレビゲームのような“1人遊び”で明け暮れしている。勉学も遊びも極めて自己中心的な感覚の中で成長してきている、ですから前述のような若者の行動様式が出てきてもある意味当然かも知れませんね。
権利の主張はあっても義務の履行に欠けている、そんな感じがしてなりません。“勝ち抜く”という行為からは、その対極にある“思いやる”という気持ちは決して生まれませんね。また、“一人遊び”からは、会話も生まれません。当然コミュニケーションという人と人との関わりも学べませんね。
かといって、全く一人になることには、なんとなく恐怖を感じている。だから、皆と同じ流行の服を着て、ファーストフードを食べ、コンビニに通うという共通化した行動様式をとり、バランスをとっている、そんな感じがしてなりません。
■ 古風なコミュニケーション
前項で述べたように、昨今の中堅から若手社員にかけて、“場の状況”を読んで行動することが出来ない、あるいは不得手な人が増えていますね。
我々が、少年時代は、ラジオがやっとでテレビなどおそらく10軒に1軒位しかなかった。もちろんテレビゲームや携帯ゲーム等ありません。ですから、放課後の遊びといえば、校庭や原っぱで鬼ごっこやかくれんぼ、ちょっと高級な感じで野球くらいでした。
これらに共通しているのは、団体での遊びということです。そしてこの団体というのが、気が合うというか波長の合った人同士で仲間、グループ化していくんですね。複数のグループに別れ、秀才組とかヨタロウ組とか、自然発生的に出来ていく。そしてそれぞれの組には、ボスが出来、それを支える参謀がいて、参謀の指示で色々と動くメンバーがいるというわけです。
余りいい例ではありませんが、大家さんの柿の木においしそうな柿がなっている。ボスが“みんなでおやつに食べようぜ。”と言い出す。参謀が、“それじゃA君は大通りの角で人の来るのを見張って。B君は塀に登り、柿を採る役、C君とD君はB君を支えて。”と次々に指示を出していく。今の官房長官より手際がいいかもしれません。首尾よく柿をゲットすると、ボスが“B君は頑張ったから3つ、参謀は2つ、C君とD君、それに俺は1つずつでいいね。”と仕切る。仲間みんなで適度のスリルと笑いを持って柿を食う。こんな光景があちらこちらで見られたものです。
また、複数のグループが出来ると、遠足や運動会の時に“幼い主義主張”がぶつかり合ったり、かわいい転校生が来ると、どちらのグループに入れるかで争ったりしたものです。
稚拙ながらも、役割分担や主義・主張ということを普段の生活の中で学んでいったんですね。そこには会話を中心としたコミュニケーションと実際に獲得した成果で持って、人間としての信頼というか信用をつけていったんでしょう。
もちろん、成果を得るためには、勇気、努力、忍耐、責任と義務といったことも学んでいきました。そんな中で“場の雰囲気を読む。”ということを体得していったんだと思います。
■ コンピューター社会における情報とは?
近頃、情報というと、コンピューターから検索エンジン等を使って、キーワードを入力すると、それに見合う回答が出てくる、そのように解釈している方が多いのではないでしょうか?何やら、とても機械的で、クールな印象を与えていますよね。
その感覚は、昨今、情報という言葉が、“情報化社会”や“情報ネットワーク”等の複合語として使用されるようになってから急速に増大していますね。どうも硬く、機械的で、無味乾燥的な響きとして聞こえるようになりましたね。それは、やはりコンピューターが介在しているからだと思います。何か知りたいことが出来た時、インプットするとコンピューター内でカチャカチャと反応してアウトプットが出てくるといった、便利といえば、便利、いささか即物的といえば即物的な感じですね。つまり、見る、聞く、触るといった人間の五感と全くかかわりなく結論が出てしまう。出てきた“情報”には、色も匂いも感情も感じられない、そんな感覚を抱くのは筆者だけでしょうか?
まぁ、“情報は、感情がこもらない、ニュートラルだからこそ良いんだ!”という反論も聞こえてきそうですが・・・。
■ 情報とは、情けに報いること?
“情報は、ニュートラル”、確かにそれも真実かもしれませんが、一方で、情報は、“情けに報いる。”と書きます。情を掛けたことに対して報いるように振舞うこという風にも取れないでしょうか。そういう意味では、人から受けた優しさに対して何とか応えるという暖かなコミュニケーションを想像できませんでしょうか?そう、本来の情報とは、言葉や感情の交流という温かい意味合いを有しているのではないでしょうか。
おじいちゃん、おばあちゃんが、縁側で孫たちに童話を口伝えで教えたり、紙芝居のおっちゃんが、飴玉を配って昔話を語ったり、親方が弟子に“いいからやってみろ”といいながら技を伝授していったり、五感を総動員して伝えていく。そして、受け手の人たちは、時に感動を持って、時には反発を感じながら“情報”を会得していく、そんな構図が昭和の時代まではあったのではないでしょうか。
■ 時には強く、時には優しく
いよいよ、今回も最終章になりました。さて、冒頭に書いた“ふれあいコミュニケーション”の意味がおぼろげながらイメージできてきましたでしょうか?それは、“情報には魂がないといけない。”ということなんです。情けに報いるには、必ず、喜怒哀楽の感情が伴っていなければ、本当の所は伝えられないということです。そして、情報伝達、すなわち、コミュニケーションは、人間の五感がはっきりと介在して初めて成立するという感じがしてなりません。最近流行してるメールでは、絵文字が大流行です。女子高生や女子大生の中には、これを駆使してすばらしい文章を作成する人がいるそうです。そういう人のことを、巷では、“メールクイーン”とか呼ぶとか呼ばないとか?これなど、メールというある意味で無味乾燥的なツールに、感性を織り込むことが出来るからこそ多用されているのではないでしょうか。
よく新聞報道は、中立で事実のみを伝えるべし、というような論調が多いように思います。これは確かに正論でしょう。でも、社説に同調したり、反論したりしながら新聞を楽しんだり、スポーツ誌の劇的な表現に頭に血を昇らせたりすることも多いと思います。人間、いつも平静ではいられません、感情の動物だからでしょう。
情報は、時には強いメッセージで、時には優しさを伝えるような感覚があってこそ活きるものだと思うのは、果たして筆者だけでしょうか?