■ 最近の風潮
最近の芸能界を見ていると、人気のある芸能人は、“端正”、“クール”、といったスマートな感じをキーワードに持っているような気がします。芸能人ばかりでなく、アマチュアスポーツ界でも、“ハンカチ王子”や“ハニカミ王子”等、みんなスマートで端正な印象を与える人たちだけがもてはやされているように感じます。
一昔前までは、“矢沢の永ちゃん”や“宇崎竜童”といったいわゆる油ギッシュな男という感じも受けていたように感じるのですが、最近は、ごく一部のマニアの間でしか話題にならないような気がしてなりません。
男性、男性した感じや女性、女性した感じを全面に出すことがどうも嫌悪感を与えるような時代に入っているのでしょうか。性を感じさせない中性的、モノトーン的な感覚がどうも気に入られている社会になったんではないか?そんな気がしてやまない昨今です。
会話や手紙は、メールに取ってかわり、人間の肉声や直筆といった“個性”を伴った伝達手段から“電子”という無味乾燥な伝達方法が氾濫するようになっています。直談判や膝詰め合わせての打合せということがないままに、メールのやり取りだけで商談が進む、そんな時代に入りました。人間性の介在がないままに事が進展していく、そんな思いを抱くのは筆者だけでしょうか?
■ 物づくりが変わった!
衣・食・住、人間にとって不可欠の3要素についても見てみましょう。
まずは、“衣”です。昔は、人間の身体にあわせて採寸して、衣服を作るということが当たり前のようにありましたね。ちょっとした街角には、“テーラー”と呼ばれるお店が、必ず見受けられました。ボーナスが出た後など、採寸している光景をよく見ることが出来たものです。ところが昨今はどうでしょう。背広の量販店に様々なサイズの物、いわゆる“吊し”が用意されており、その中から自分にあったものを選択するというスタイルが大半ではないでしょうか?むしろ、オーダーメードというのは、一般庶民よりやや上位ランクの人々の間で取り入れられているように見えます。
次は、“食”です。これも随分スタイルが変化していると思います。家庭においては文字通り“家庭料理”を、そこのお母さんの個性で味付けして振舞われていたと思います。しかし、最近では、スーパーやコンビニが普及したせいか、どこの家庭でも“レンジでチン”が何の衒いもなく普及しています。どこの家庭でも同じ味が供給される時代になりました。
外食も状況は同様ですね。居酒屋チェーン店がちょっとした街には必ずあり外食でも同じ味が供給されています。もはや“個性的な味”は、高級割烹や五つ星のレストランのようなところでしか味わえない時代に入りました。
最後に、“住”です。昔は家を構えるといえば、何々工務店に依頼し、そこの棟梁独特の手法による住宅を手に入れたものです。ところが昨今では、そうした選択を出来る人は、どちらかというとお金持ちに限られてきたのではないでしょうか。大半は、プレハブメーカーの供給しているシリーズ物の中から選択し、せいぜいオプションをつけるという方法が多いのだと思います。
何を言いたいかというと、物づくりにおいても、“独自に物を作る。”から“予め用意された物から選択する。”に変化してきているのではないかということです。極めて人間的で個性的な作りこみという行為が、物づくりの世界でも失われつつあるのではないでしょうか?
■ 没個性の時代を憂う
前2節で言いたかったこと、それは、人間そのもの、人間が交流する手段、人間が着る、食べる、住まうことにおいて、個性的なものを意識的にか無意識にか避けている時代なのではないかということです。
若者がこぞってファーストフードを食べ、学校では“みんなと同じように行動する。”ことがコミュニケーションを保っていく秘訣であるとまで言われています。他人と違うことをすると仲間はずれにされる等、現代は、没個性化を促す風潮にあるように思われます。
皆、個性的でありたいと望む反面、同じように振る舞い、集団の中に溶け込むことが実は楽なんだという意識がどこかに潜在しているように見えます。ひたすら目立たぬように生きることが美徳であるかのような印象さえ与えます。
男臭さや女臭さを排除した中性的な人々が好まれ、個性の少ない商品群が選択される時代背景とは一体何なのでしょうか?筆者にはよく理解しかねる状況が現代においては展開されています。
■ 建築における個性とは
大分長く脱線しました。ここで筆者の所属している建設業界に目を戻しましょう。“建設”という大きな物づくり、いわゆる建築物の構築でも“没個性”が望まれているのでしょうか?答えは、否です。部品レベルの構成要素は、必ずしも個性は必要としませんが、街並みに存在する建築物が、もし皆、同じ表情をしていたら、きっとその街は廃墟のように見えるでしょう。街並みに存在する建築群達は、それぞれに個性を発揮し、主張しあってこそ、街に活気を与えることになるのだと思います。
著名建築家の中には、カリスマとも思える個性を有した人が数多く存在し、種々の個性的な建築群を設計されています。そして、街並みの中で存在感やある種のリズム感を創出し、街のシンボルとして位置づけられることも少なくありません。そういう意味では、建築物は、ある種の“芸術作品”となりうる存在です。
かって、“芸術は爆発だ!”をキーワードに、一世を風靡した芸術家がおられましたが、大阪万博では、“太陽の塔”という建造物も残されましたね。あの方等、まさに個性の塊のような存在感がありましたね。
■ “喜・怒・哀・楽”が消えた?
さて、上述のような個性は一体どこから生まれるのでしょうか?私は、昔から人間の行動要素としてよく言われている“喜・怒・哀・楽”にその原点があるように感じています。嬉しい時には、“喜び”、頭にきたときには、“怒り”、泣きたいほど、“哀しみ”、我を忘れて、“楽しむ”等、いわゆる、自分の気持ちを素直に表現すると言うことではないでしょうか?
そうした人間的行為が、幼少期には、「無邪気なお子さんですね。」と肯定的に受け取られるのに対し、青年期以降に同様な行動をとると「いつまでも子供じみてる。」とか「少しは大人になりなさい!」とか叱責の対象になるのは何故なんでしょうか?そもそも、この“大人として行動しなさい。”とは、一体どういうことを言うのでしょうか?文字通り“大人しくする。”と言うことなのでしょうか。“大人しく”は、洒落ではありませんが、“音無しく”に繋がっているのでしょうか。つまり、外的要因に対して、素直に反応せずに“男は黙って・・・。”ということなんでしょうか。情報量の少なかった時代は、確かに、“黙っていても相手の感情を読み取れる。”ことが多かったかもしれません。しかし、様々な情報が混乱している現在では、相手がどういう考えを持っているのか、“黙っていては相手の意思は読み取れない”と思います。同時に自分の想いを伝えるには身振り手振りを交えて熱心に話さないと伝わらないのではないでしょうか。
■ 国際化と“喜・怒・哀・楽”
今は国際化の時代です。相手が日本人とは限りません。国際共通語の英語が通じるところならまだしも、建築分野で海外調達を進めている東南アジアでは中国語、タイ語等が多く、英語すら通じないことが多いです。そんな中で、“作ってほしい物はこれだ!”という自分の意思を伝えるには、相手の目を見て、ボディラングエッジを加えながら真剣に話す、それを通訳に翻訳してもらうしか方法はありません。冷静に語るだけでは、30%も意図は通じないと思った方がいいでしょう。このコミュニケーション不足から要求品質に見合うものが得られず、「海外製品は駄目だ。」と短絡的に結論を出しているケースも多いのではないでしょうか。真剣さを伝えれば、人間同士です、必ず分かり合える部分があると筆者は実感しています。
そしてこのことは、日本人同士にも同じことが言えるでしょう。今こそ“喜・怒・哀・楽”を交えてコミュニケートすることが大切だと思います。何も“感情的に話せ“といっているのではありません。“感情を込めて話せ”ということです。冒頭のメールに話を戻しますが、電子媒体には決して感情はありませんね。確かにそれが利点の場合もあります。でも、若い子の中には、会話が苦手で、メールを送っただけで、“依頼は済んだ”とか“仕事は終わった。”と解釈し、その後のフォローをしない人が増えているように感じます。そういった仕事のやり方は楽かもしれませんが、明らかに無味乾燥でどこにでもある結果しか得られないでしょう。“一味違った結果を得たい!”なら、“喜・怒・哀・楽”の感情を持って真摯に事に当たるべきでしょう。
若い頃を思い出してください。あなたが伴侶を見出す時、どれだけ“喜・怒・哀・楽”繰り出していたでしょうか。